読み進めた見出しを、この端末にしおりとして記録します。
「なぜ医者になったんですか」と聞かれると、いつも困ります。きれいな答えを用意していないからです。
今号は、その用意していない話を書きます。
写真の少ない家#
友達の家に行くと、リビングに写真が並んでいました。運動会、誕生日、七五三。家族が笑っている。
うちには、それがありません。玄関にも、居間にも。僕の子ども時代のアルバムは、いまでも薄いままです。
理由は単純で、撮る余裕がなかった。
僕には4歳上の姉がいます。生まれたときの高熱が原因で、脳に重い障害が残りました。歩けます。手も使えます。でも、言葉は話しません。「うー」「あー」という声は出ます。意味のある言葉を、僕は一度も聞いたことがありません。
だからうちでは、姉の機嫌は顔と体から読むものでした。いま痛いのか。眠いのか。うれしいのか。教えてもらえないので、見るしかない。
朝起きたら姉がいて、母が着替えをさせている。食事も、風呂も、トイレも。それが毎日続きます。休みという概念がありません。
姉のことを、僕は外で話しませんでした。電車で障害のある人を見かけると、目をそらす癖がありました。姉の顔が浮かぶからです。
理由は書かないでおきます。子どもらしい、つまらない理由です。ただ、あの頃の僕が姉をまっすぐ見ていたかというと、見ていなかった。そこだけは書いておきます。
台所の「ありがとうね」#
夕方の台所に、母の背中がありました。
洗い物の途中で手が止まって、窓の外を見ている。たぶん、何も見ていません。
「お母さん、どうしたの」
振り返った母は、笑いました。
「なんでもないよ。ありがとうね、心配してくれて」
本物の笑顔でした。嘘ではない。
でも、全部でもなかった。
母が欲しかったのは、「ありがとうね」と笑うことではなかったはずです。「しんどい」と言える相手が、ひとりいればよかった。
それに気づくのに、僕は二十年以上かかりました。
いま、診察室で「大丈夫です」と答えるお母さんがいます。声のトーンが、あの日の母と同じことがあります。
原稿用紙#
小学生の僕は野球ばかりしていました。医者になりたいと思ったことは、一度もありません。
それが、「将来の夢」を書く授業で止まりました。鉛筆を持ったまま、何も書けない。
浮かんだのは、姉の顔と、母の背中でした。
自分は、何のために生まれてきたんだろう。
気がついたら、小児科医と書いていました。
立派な動機ではありません。自分の家に起きたことに、意味があってほしかった。それだけです。
そこから先は、うまくいっていません。野球をやめて、机に向かって、何度も落ちました。一度は補欠通知で終わりました。その夜、母に電話して、次は絶対に叶えると言いました。人より少し遅れて、医学部に入りました。
帰れる人と、帰れない人#
医学部に入って、カメラを買いました。手元に自分の過去が何も残っていなかったからです。これからは自分で残すしかない。
ファインダーを覗いて、驚きました。毎日通っていた道が、違って見える。朝と夕方で色が変わる。しゃがむだけで、まったく別のものが写る。
見え方はひとつではない。頭ではなく、手で知りました。
小児科医になって、新生児集中治療室にいた時期があります。保育器が並んで、モニターの音だけがしている夜です。小さな体を診ながら、手が止まることがありました。
この子が退院したあと、この家族はどんな毎日を送るんだろう。
痰の吸引。経管栄養。旅行に行けない。仕事を辞めるかもしれない。眠れない夜が、終わらずに続く。
想像できてしまいます。僕が、そちら側にいた人間だからです。
医師は、家に帰れます。
家族は、帰れません。
当直が明ければ、僕はシャワーを浴びて、コーヒーを飲んで、次の日に備えられる。家族に当直明けはありません。退院した日から始まる毎日に、交代要員はいない。明日も、来週も、来年も、同じ朝が来ます。
それを忘れた瞬間に、僕は医者として何か大事なものを落とします。
だから、教える人ではなく、隣を走る人でいたい。走るのはご家族です。僕にできるのは、少し先の地形を知っていることくらいです。
うちに足りなかったもの#
うちに足りなかったのは、医学の知識ではありませんでした。
姉の病名は、早い段階でついています。説明も受けている。書類もある。
足りなかったのは、その先でした。
どこに相談すればいいのか。どの制度が使えるのか。保育園はどうなるのか。学校は。そのあとは。
誰も教えてくれないので、母は毎回いちから調べていました。役所に行って、窓口を回されて、帰ってきて、また電話をかける。そのあいだも姉の介助は止まりません。
病名がわかっても、暮らしはわからない。
同じことが、いま僕の外来でも起きています。診断がついて、薬が出て、では明日から何をどうすればいいのか。そこを聞ける場所が、病院の中にありません。数分の診察に、その時間はない [1]。
だから、ここを作りました#
「みなとん」に置いているのは、あの頃うちに無かったものです。
記事は400本あまりあります。全部に参考文献をつけました。信じてくださいという意味ではありません。確認できるものしか置かない、という意味です [2]。夜中に検索したお母さんが根拠のない記事や広告にたどり着くなら、情報が山ほどある今も、あの頃と変わらないからです。断言してくれる人の言葉ほど、耳に心地いい。そこがいちばん危ない。
でも、記事だけなら他にもあります。うちが本当に困っていたのは、記事にならない側でした。
だから、受診の目安を置きました。保育園や学校の出席停止がいつまでなのかも、予防接種と健診がこの先どう続くのかも、診察室で飛び交う言葉の意味も。医学の知識というより、明日の段取りの側です。
療育がどういう場所なのか、児童発達支援の事業所をどう選ぶのか、放課後等デイサービスとは何か、医療的ケアが必要な子の暮らしをどう支えるのか。そういう記事も置いてあります。姉のような子がいる家に、誰かが渡すべきだったものです。
その中に、きょうだい児の記事が一本あります。「お兄ちゃんだから我慢してね」は禁句です、というタイトルです。
あれは、自分のために書きました。
研修医の頃、退院を待つ子のお父さんが、僕の横に立っていました。何も言わずに、ただ立っている。僕はそのあいだ、書類を40分書いていました。その40分、僕はその家族の話を一度も聞いていません。
AIを使い始めたのも、この場所を作ったのも、あの夜から地続きです。診察室では数分しか話せない。その外側を、ここに置いています。
できていないこと#
正直に書いておきます。
このサイトは港区に寄せて作ってあります。だから、他の地域の方には半分しか役に立ちません。
個別の相談にも答えられません。ここにあるのは一般論で、お子さんを診ているのは僕ではない。最後は、目の前で診ている先生に聞いてください。
情報は古くなります。制度は毎年変わります。直したところは更新履歴に出していますが、追いつかない部分は必ずあります。気づかれたら教えてください。
いちばんの宿題は、暮らしの段取りの側です。園のこと、制度のこと、手続きのこと。うちが一番困ったのはまさにそこなのに、いまは区の窓口をご案内するところで止まっています。医学の記事より、こちらのほうが難しい。
もうひとつ。届いていない、という問題があります。あの頃のうちのように調べる余力のない家にこそ必要なのに、そういう家ほど検索をしません。どうすれば届くのか、まだ答えが出ていません。
先日、母に聞いたこと#
実家に帰ったとき、母に聞きました。
「しんどくなかった」
少し間がありました。
「しんどかったよ」
それから、あの子がいなかったらあなたも小児科医になってないかもね、と笑いました。
台所で見たあの日とは、違う笑い方でした。
今号のまとめ#
- 実家には家族写真がほとんどなく、4歳上の姉には生まれたときの高熱による重い障害がある
- 「将来の夢」を書く授業の日に、気がついたら小児科医と書いていた
- カメラを買って、見え方はひとつではないことを手で知った
- 医師は家に帰れるが、家族は帰れない。そこを忘れないことが仕事の芯
- うちに足りなかったのは医学の知識ではなく、明日の段取りだった
- 「みなとん」はその穴を埋めるために作っている。港区に寄っていること、暮らしの段取りがまだ薄いこと、必要な家に届いていないことが、いまの宿題